寄付者の声
《前編》学生として、教員として
--上智で過ごした50年
鈴木 雄雅 様 上智大学名誉教授

ラジオをきっかけにメディアに興味を持ち、新聞学科に入学
私は1971年に上智大学へ入学し、大学院と教員生活を経て2023年に最終講義を迎えました。実に50年以上の時を上智大学と共に過ごしてきたわけですが、入学した時はまさかこれほど長く関わるとは思ってもいませんでした。
私が上智大学に興味を持ったきっかけはラジオです。当時、ラジオの深夜放送が若者を中心に人気を博し、特にTBSラジオの『パックインミュージック』は大きな支持を集めていました。高校生だった私もラジオを熱心に聞くようになり、四谷にあった文化放送に行って夕方の公開収録を見るまでになりました。何度か通ううちにラジオをはじめとするメディアを学びたいと思うようになり、探してみると行き慣れた四谷に上智大学文学部新聞学科というものがある。その頃は今のようにメディアを学べる学科がほとんどなかったので、これは良いと思って推薦入学で入りました。
自分の好きなことを学べる日々は新鮮で、きっかけはラジオでしたが新聞、テレビ、音楽、演劇台本など興味の幅はどんどん広がっていきました。新聞学科では当時から新聞社や通信社の記者など現場を知っている方が非常勤講師を務めていたため、いろいろな先生方から「生の声」を聞けたことがメディア全般への関心につながったのだと思います。
ただ、学生運動には少々うんざりしました。東京大学で学生が安田講堂を占拠し、機動隊が突入する事件が起きたのは1969年のこと。1971年はすでに終焉期でしたが、それでも1年次は授業が中断されて討論会が始まることがしばしばあり、学年末試験も中止されてレポート郵送となりました。現在の平和なキャンパスからは想像もできないでしょうが、上智大学は私学として初めてロックアウトを行うほど学生運動が激しく、キャンパスでは火炎瓶も飛んでいました。しかし、東大安田講堂事件の影響を受けて高校時代にも討論会を行うことはありましたし、大学の討論会は17時になると打ち切られる。本当に変革を求めているのであれば時間など気にせずとことんやればいいのに、なぜか時間だけは守るちぐはぐさに閉口し、この頃から「何を学ぶために大学に入ったのか」と大学に入学した動機づけを考えるようになりました。
大学で何を学ぶか。いくつもの出会いを経て拓かれた学問の道
学習とは学びを習うこと、学問とは問いを学ぶこと。学問を修める大学は「何を学ぶか」を自ら問い、学ぶ場所です。私にとって「自分は何を学ぶのか」という問いに光を照らしてくれたのは小糸忠吾教授でした。小糸先生は戦前にアメリカへ留学して世界恐慌を経験し、最後の日米交換船で帰国。アメリカの日本向け短波放送の傍受にも関わった方で、共同通信社のニューヨーク支局長を経て上智大学で教鞭をとっていました。2年次に先生のゼミへ入った私は、先生と同じジャーナリズム史、国際コミュニケーション分野の研究に自然と邁進することになったのです。
学部時代の思い出では神父様と交わした問答も忘れられません。今のようにタブレットの中にさまざまな資料が入っている時代ではないですから、「原書と辞書のせいで毎日鞄が重いです」と私が話すと、神父様はこう答えてくれました。「学問とは重いものです」と。それは物理的な重さだけではなく、学びの道程や研究者・教育者としての人生を示唆する言葉であったと思います。
小糸先生や神父様、いろいろな方の教えを受けて、4年次には「もう少しメディアについて学びたい」と思うようになり、上智大学大学院文学研究科に進学することを決めました。大学院の学費を稼ぐために母校の中学校で社会科の非常勤講師をはじめたところ、次第に受け持つ学校が増えていき最終的には3校で教鞭をとることに。大卒初任給が5~6万円の時代に4万円ほど稼ぎ、学費と生活費に充てていました。ちなみに、大学の卒業論文のタイトルは『深夜放送と若者たち』です。入学当時の初心を思い出し、このテーマで論文を書きました。
ラジオがきっかけだったメディアへの興味は、大学院時代に英字新聞へと移りました。修士の授業で幕末・明治期の英字新聞に触れる機会があり、「当時の英字新聞が、読んだ人たちを通じて明治の日本にどのような影響を与えたのか」という部分に関心を抱いたからです。英字新聞は原紙の保存状態が悪く、調査が難しいと教わったことで外国人居留地だった長崎、横浜、神戸へ調査に行き、『英字新聞と外国人ジャーナリスト』というテーマで修士論文も書きました。
小糸先生の勧めでオーストラリアのシドニー大学に3年間留学した際も日本の英字新聞と関わりがある人を調べ、現地では研究者のパイオニアとして名高いヘンリー・メイヤー教授、当時チューターで現シドニー大学の名誉教授であるR・ティフェン教授からも学ぶ機会を得ました。ヘンリー・メイヤー教授はレジェンドのような存在なので、オーストラリアの研究者に彼から学んだと話すと皆さんびっくりします。また、ティフェン教授は上智大学でも1年間教鞭をとったことがあります。

1978年夏 留学先のオーストラリア・シドニーにて
いま振り返ると、大学に入ってから紡がれたさまざまな縁によって人の輪と研究対象が広がっていったのだと改めて感じます。英字新聞の研究は、その後ぺりかん社から「明治時代の新聞を編年体で復刻したい」という依頼がきて、全60巻以上からなる『日本初期新聞全集』に監修・執筆者として携わりました。
学生を教え、育み、いつしか「東京のお父さん」と呼ばれるように
博士課程に進んでからは1年を残して単位取得済満期退学の道を選び、1984年から上智大学で講師として働き始めました。当初は朝7時頃に大学に来て、帰宅するのは夜11時。自分の引き出しが多ければ学生の多様な面を活かせると思い、授業と教育研究に膨大な時間を費やしました。
新聞学科の定員はかつて60名(2017年度以降の定員は120名)で、少人数で理論と実践を学びマス・メディアに人材を送り出すという特色をもっていました。メディア志望の学生も多かったですが、ジャーナリストとして身を立てるということは事件や事故、差別、ハラスメントといった「不幸を報じる側」に立つということです。ニュースで流れるのはグッドニュースよりバッドニュースの方が圧倒的に多く、政治スキャンダルなども含めて「他者の不幸に関わりながら生計を立てている」という意識を忘れてはいけないと学生には口を酸っぱく話してきました。
時代の移り変わりと共にメディアだけではなく広告や一般企業でのPR広報など就職先は広がっていき、現在ではメディア従事者を育てるだけではなく、社会人として必要なコミュニケーション能力とメディアリテラシーを備えた人材育成を重視しています。
また、今も昔も留学生が非常に多いのも新聞学科・新聞学専攻の特色の一つです。特に韓国、中国、台湾など東アジア圏の留学生が多く、学位を得るための論文指導も随分と行いました。論文指導の場合、留学生に対してはアカデミックな論文を執筆するための日本語トレーニングから始めなければなりません。さらに博士論文では研究者のスタートラインに立てると証明できるまで能力を引き上げなければならないし、将来を見据えて英語で論文を執筆するなら英語力も必要となる。教育とは「教え、育む」ことであり、一人ひとりと向き合い可能性を育むためによくランチタイムを共にして話を聞いていました。
時には「学生に甘いのではないか」という声も聞こえてきましたが、妻が小学校の教員で「児童を初等教育に導く」役割を果たしていたため、それなら私は「学生を社会へ送り出す」責務を果たそうと感じていたのかもしれません。学生一人ひとりと向き合う中でいつしか留学生や地方出身の学生からは「東京のお父さん」と呼ばれるようになり、准教授、教授となり月日が流れると「東京のお爺さん」になっていました。

1996年頃 新聞学科スタッフらと
就活科目を開設し、人材を広く受け入れるため社会人入学も推進
教育面以外で力を入れたのは、就活科目の開設と社会人の受け入れです。就活科目は卒業生や上皇后美智子さまの従兄である正田彬法学部教授、神学部教授で後に副学長となる山岡三治教授に尽力していただき実現したものです。卒業生の生活と意識を調査し、「大学での学びが社会生活にどう影響しているか」を検証した時には語学や専門教育の影響度が高いことだけではなく、教員とのコミュニケーションも意外と影響が大きいのだとわかりました。学問だけではなく、身近な教員との対話も社会生活を送る上で活きている。そうした内容を在校生に伝えれば、大学生活の過ごし方にも変化が起きますし、実現できて良かったと思っています。今では学生向けの就活科目や就活イベントはどの大学にもありますが、これはその先駆けであったと自負しています。
そして、大学や大学院で学びたい人を広く迎えるために社会人の受け入れも積極的に推し進めました。社会に出て、さまざまな経験をした上でもう一度学び直したいと思う方は国内外に大勢います。上智大学で学び、韓国や中国など母国に戻ってから言論界を形成したり大学教授になったり、社会人入学した留学生の活躍も多方面に及んでいます。そうしてできた縁によって、ゼミ生を連れてソウルや台北で合宿をするといろいろと面倒をみてくれ、結果的にその時々の在校生に還元されるサイクルが出来上がりました。上智大学では40年も教鞭をとらせてもらいましたが、やはり人の縁によって次の世代の学びの質も向上したのではないかと思っています。
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